松崎さんてどんな人(2009年8月4日)

昨日、選対の会議で「ホームページを見ても、松崎さんの顔が見えてこない。どんな人か分からないと親しみがわかない」という指摘がありました。なるほどと思った意見は取り入れて、すぐ実行するのが最近の私の流儀ですから、さっそく私自身のプロフィールを紹介してみます。

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東京のサラリーマン家庭に生まれ、区立の小・中学校、都立高校を経て東京大学に入学。入学式の翌日に父が病死(受験勉強中、まる1年の入院後)したため、働きながら6年かけて大学を卒業。就職活動中にアルバイト先の厚意や亡父の親友の援助があってアメリカ留学を決意。ハーバード大学の大学院で修士号を取得できました。

在米中に、文藝春秋の月刊誌『諸君!』の依頼で、連邦下院議員選挙に関する論文を寄稿。帰国後は著述を仕事にしようと考えましたが、文春の雑誌や週刊誌の連載を貰えたものの、それほど芽が出ずに悶々とした日々を送りました。

1年あまり後、自民党のシンクタンク/総合政策研究所の主任研究員となり、以後、自民党幹事長付、自民党総裁付として中曽根政権時代の権力中枢を垣間見ると同時に、中曽根首相のブレーンと言われた方々の知遇を得ました。劇団四季の浅利慶太代表との関係もこの頃から。東大の佐藤誠三郎教授とは現代政治分析を共同研究して日本の政治学に期を画し、論壇をリードする評論を多く発表。学習院大の香山健一教授にはテレビ等の仕事を紹介されて、今日につながる基礎を築きます。

細川護煕氏が旗揚げした日本新党の結党時に、私を同氏と結びつけたのが香山教授。直後に実施された参院選(1992)には比例代表選挙に立候補し、次点で惜敗。当時の仲間のほとんどが今、国会議員や自治体の長になっていますが、新党の理想は民主党にこそ引き継がれます。1996年の第1次民主党の結党にも98年の第2次民主党の結党にも参加しましたが、選挙では苦杯をなめ続け、ようやく3度目の2003年総選挙で当選。

埼玉10区を選挙区としたのは、ここが私の地元だから。何代も何百年も住んでいるわけではありませんが、1986年に今の家に越してきて以来、20年以上になります。落下傘候補とは選挙のために便宜的に籍を移すことで、私は落下傘ではありません。みずからの意志でこの地を選んで住み、みずからの意志でこの地を選挙区とし、いわゆる世襲議員たちとは違って、一歩ずつ、一回ずつ、支持を拡大してきた叩き上げの地元密着型の政治家です。

一部の週刊誌で、私が世襲候補とか二世とかに分類されているのは事実誤認です。私はすでに1991年に出版した著書(『日本型デモクラシーの逆説』)で、二世議員とは「選挙地盤を親族から継承して出馬し、当選した職業政治家」と定義しています。これは東大の北岡伸一教授からも妥当と評価され、その結果、学説上はこの定義が定着しています。もちろん、埼玉10区を誰からも継承していません。

家族は妻と、一男二女の子供たち(皆、地元の学校に通いました)ですが、すでに成人して独立しています。

三木武夫元首相は義理の伯父です。亡母の姉が今も元気な三木睦子で、私が政治家になった原点は、常に国民とともに在り、「クリーン」を貫いた三木政治にあるといえます。

著作には議席の世襲を批判した『日本型デモクラシーの逆説』や『名歌で読む日本の歴史』など多数がある他、湯川裕光の筆名で『瑤泉院』『安土幻想』『明朝滅亡』などの歴史小説や、劇団四季のミュージカル台本『異国の丘』『南十字星』『マンマ・ミーア!』を手がけています。

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